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1904(明治37)年夏、東京美術学校を卒業したばかりの青木繁は、画友の坂本繁二郎、森田恒友、そして恋人の福田たねとともに房州布良を訪れ、漁師頭の小谷喜録宅に1ヶ月半逗留しました。

マグロ延縄漁発祥の漁村は、活気あふれて賑やかです。大漁の港には豊かな海の恵みがあふれています。海女メガネを借りて海の潜ると、まったく新しい世界が広がり、画家の卵たちは刺激的な日々を過ごしました。

布良崎神社と富士山(撮影:島田吉廣)

ここ布良は、房総開拓神・天富命が上陸したといわれる神話のふるさとで、阿由戸の浜には男神山と女神山がそびえています。もともと神話が好きな青木は、大自然と神話を素材にたくさんの絵を描き上げます。小谷家のとなりにある布良崎神社のお祭りでは、女の襦袢姿に姐さん被りをした男衆が、1トン近い大神輿を担いだまま海に入る「御浜くだり」が荘厳です。黄金の神輿と、灼けた褐色の肌が夕陽を浴びて輝きます。青木も担いだかもしれません。こうして、代表作《海の幸》が誕生しました。

翌年、懐妊した恋人・たねとともに、ふたたび館山を訪れます。伊戸の円光寺に滞在し、板戸4枚に焼きクギで描いた荘大な海景は圧巻です。白波は岩に砕け、水平線には富士山や大島・利島・新島…と島影が並びます。たねと入籍せず生まれた長男は、福田姓のまま幸彦と名づけられ、2歳で父と別れますが、後に『笛吹童子』で知られる尺八奏者の福田蘭童となります。さらに蘭童の子は、クレージーキャッツの石橋エータローとして活躍しました。

28歳で夭逝した青木繁の没後50年を記念し、田村利男館山市長をはじめ辻永・坂本繁二郎・河北倫明ら画壇に関わる著名人が発起人となって基金を募り、《海の幸》記念碑が建立されたのは1972(昭和37)年でした。設計者の生田勉(東京大学教授)は、神話のふるさとであることから神社の幣帛を象徴し、四角いアーチを現わしたと書き残しています。ところが、1998(平成10)年に解体撤去されそうになったものの、地元役員らの運動により保存され今に至っています。

かつて栄えた漁村ですが、近年は水産業の衰退に伴い、少子高齢化がすすみました。2008(平成20)年、地域の文化遺産を活かして観光振興と地域活性化を図ろうと、地元では「青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会」が発足しました。翌年、青木が滞在した「小谷家住宅」は館山市指定文化財となりました。

布良は、美術界の聖地といわれています。全国の画家や美大の教授らはNPO法人青木繁「海の幸」会を設立し、「小谷家住宅」を保存するための基金約4,000万円を募る活動をおこなっています。一方、少子化のために地元の館山市立富崎小学校は、2012(平成24)年に統合されて休校となりました。青木繁を愛する人びとの心に共感した小谷家当主は、地域活性化の一助として、修理が完成した折には個人住宅を市に寄贈し、「青木繁《海の幸》記念館」として一般公開してもよい、とおっしゃっています。

このような動きを受け、館山市では「ふるさと納税」制度のなかに「小谷家住宅の保存・活用基金」の枠を設けました。多くの皆様のご支援をお願いいたします。

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